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ターボの写真アルバム
[撮影の背景]
素敵な写真ですね。並大抵の努力ではこんな写真は撮れないだろうと思って、ターボさんにインタビューしてみました。
冬の夜明けの富士山の撮影や野鳥の撮影のために、毎回天気予報をチェックし早寝、早起きの習慣で朝5時には起床されるそうです。また、寒さのためにバイクのハンドルを握る手先の感覚が痛く痺れるのも我慢し、寒風吹く中じっとカメラを構え、シャッターチャンスを逃さないために辛抱強く待つ・待つ・待つだそうです。 こんな努力と根気・忍耐があってこそ芸術的な素晴らしい写真が撮れるのですね。(17'1/25 筆)
2017年も残り少なくなりました。一年が過ぎるのがあっという間です。
暫く我が中学のHPへの投稿をしていなかったので編集長から厳しい教育的指導を受けてしまいました。
その気になれば早く原稿を作る気になって、この一年を振り返り、編集長の日頃のご苦労に答えるべく、クリスマス・プレゼントとします。
天気が良い日は年初めから年末まで自宅からバイクで30分足らずの江の島でハヤブサを撮影するために夜明け前に自宅を出て、島の上から富士山を望み、光のショーを楽しんだ後、磯に降りて今度はハヤブサの観察をする日々です。
日の出の30分前から待機していると、空の色が暗いブルーから茜色に変化して、陽が昇ると富士山の頂上から陽がさして明るくなり、その間の光の変化は季節、天候によって違い、飽きることがありません。
春は空気がどんよりしているうえ、日の出の時間が早く、写真の出来は今一です。
晩秋から本格的な冬は空気が乾燥して透明感のある富士山となり、日の出も次第に遅くなるので楽ちんですが、夜明け前は一日で一番気温が下がるのでバイクのハンドルを握る手先の感覚がなくなり、厳しい条件となります。
以前にも夜明の富士山をHPに掲載して頂きましたが、あれから数年が経って今年から後期高齢者となり、強力な老人力が発揮できたかどうか?HPをご覧の皆さまの判断に委ねることとします。
今年の10月23日は台風21号が関東地方を直撃して、江の島は高さ8mの防波堤と沖合のテトラポットを乗り越えて15mの高さからウォーターハンマーのように上空から落下した影響で防波堤上の遊歩道にある鉄製のてすりが根本から折れ曲がったり、
強風で吹き飛ばされ、この原稿を書いている今日現在も磯に降りる一部の通路を除き、通行禁止となっています。
10月23日の夜明けは台風一過の見事な空で今年一番の美しさでした。
12月4日は月が地球に最も接近するスーパームーン、夜明け前のスーパームーンと富士山の組み合わせは寒さを忘れる感動でした。お月さん下の街は平塚です。
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荒れる海と富士 |
12月4日スーパームーン |
12月22日富士山の上空に雲 |
最後に撮影機材について、一言。使用したカメラは2012年に発売のニコンD800Eという3630万画素のデジタル一眼レフです。発売当時は画期的な高画素で然も、ローパスフィルターレスという解像度の進化でフィルムカメラに追いついたと評価されました。写真一枚当たりの画素数が重いのでHPに載せるため縮小率に苦労しました。
「美しい自然バンザイ!!」
@ 梓湖の紅葉
A 一ノ瀬どじょう池
B 遠景は穂高岳
C 乗鞍高原一ノ瀬牧場
D 白樺峠から乗鞍
「真夏の涼ー3枚の写真」 17'7/28
@ 富士見高原の自然散策路
A 夏雲の八ヶ岳高原
B 自生したナデシコ
「夜明けの富士」 17’1月25日
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1月26日ミサゴがメジナ |
ウミアイサが魚を捕る |
メス崖バック |
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夜明けの富士 |
夜明けの三浦半島 |
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夜明けの海 |
ウミアイサ3羽 |
「長い夏の一日」 2015年8月 文と写真 境 孝彦
この原稿のテーマは初めは「夜空の芸術」とでも考えていたのですが、あの日の出来事を原稿に書いた方が良いか、と考えを変えました。
あの日の出来事とは8月4日に横浜の観光名所みなとみらいの一画にある臨港パークで打ち上げられる花火のビッグイベントです。
毎年、臨港公園の東側にある海上から1万5千発の花火が夜空を飾るというので人出は20万人にもなり、花火を見るためのベストポイントは予約制のチケットが有料で然も結構な料金とあって、花火は人の多い場所から三脚を立てての撮影は難しいことから、大桟橋のデッキから撮ることにしました。
ネットで調べると、当日の大桟橋には有料の整理券がないと入場出来ないことになっていて、整理券発売は10:00からとなっています。仲間と相談した結果、整理券を入手するために徹夜で待つ人がいるかもしれない、というので一時はそこまでして花火を見るのは諦めようという話も出ましたが、当日は早朝に目が覚めたので7時前に大桟橋に行ってみたら、最前部から10番目でした。
待つ事3時間余り、やっと入場整理券が手に入ったので一旦帰宅し、花火は19:00から始まるというので16:00に大桟橋に行くと、既に出遅れで大勢の人が列を作り並んでいるではないですか。三脚を立てる場所は制限されているので花火を撮影する北側の手すりにはカメラマンがずらり、これでは海上やみなとみらいをファインダーに入れた写真は撮れないので花火そのものだけを撮ることにしました。
そして19:00からまだ薄明るい空を背景に花火が始まりました。さすが連続して空に打ちあがった花火が頭上で大きく広がると観客の大声となって見応えがありました。1時間も続いた花火も20:00にはこれでもかという連続で無事に終了、これからがまたひと苦労、大勢の観客が大桟橋からそれぞれ帰宅するのですから道路は人また人、ようやくJRの駅に着くと、何と、電車は架線事故で運転していないとのこと、後で知った情報で、当日は横浜方面から花火の観客が多数電車に乗っていたので桜木町駅で乗客が下車するのに時間がかかり、後続の電車が駅の手前で停まったところ、その場所は架線が切り替える場所だったため、発車時に大電流が流れて架線が溶けてしまったという事故で、帰宅の花火客は代替の交通機関バスや地下鉄駅に殺到したのです。自宅に帰ったのは午前さま、長い一日でした。
肝心の花火の話をしなければいけませんネ。花火の撮影は今年初体験で、撮影自体は難しいことはなく、三脚に固定したカメラにリモートコードを付けて、カメラには手を触れないようにします。空に広がった花火をフレームに収めるためには花火の大きさが予め分かっていれば広角レンズの長さが決められます。花火が上がれば後はリモコンコードを押すだけです。花火の技術が進歩しているので子供の頃見た花火と違い、空中で広がる色、大きさ、形が変化し楽しめます。それでは真夏の夜空に広がった花火を鑑賞ください。
「横浜大桟橋・昼と夜」 15'7/19
「相模湾から見た富士山」 ’15年4月筆 写真(10枚)撮影期間 ’14年11月4日〜’15年4月4日
自宅近くに江の島があり、観光地として有名な島には週末ともなれば大勢の観光客が訪れます。島には神社もあって正月は島へ徒歩で行く唯一の弁天橋は通勤ラッシュ並みの混雑でした。
江の島に一年を通じて通うようになったのは観光地で賑わう商店街ではなく、海に面した高さ80mの崖に生息するハヤブサの写真を撮るのが目的で、磯に降りるには滑り止めが付いた長靴が必要なので、引潮で磯がドライでない時は釣り人以外立ち入りません。
野鳥の撮影には高速で飛び回るハヤブサを連写する性能のカメラが必要で、2年前に3600万画素という高画素のカメラを購入して以来、常に2台のカメラをバッグに入れて出かけるようになりました。野鳥用の望遠レンズ500mmと環境用に24〜120mmの標準レンズ、それに富士山を撮るために70〜200mmの中望遠レンズが加わるとかなりの重さになります。
写真の紹介の前にカメラスペックを紹介しましょう。ボディはニコンD4sという連射が利くカメラ、高画素の風景用はニコンD800Eを愛用しています。余談ながら、以前にカメラ雑誌で知った記事で、著名なプロカメラマンが政治家のポートレートを仕事で撮っていて、その政治家曰く「カメラマンは良いな〜」「シャッターを一回押すだけで仕事になるのだから」著名なプロカメラマンは内心ビックリしましたが、澄ました顔をして「バシ!」と一回だけシャッターを押して「ハイ!終わりました」と言ったそうです。
アマチュアでも思うように、狙った写真を撮るために道具は2台用意し、前もって準備周到でなければなりません。
それでは本題の「相模湾から見た富士山」に入りましょう。D800Eというカメラは高画素で精細な大型カメラ「プロが仕事で使う風景写真には35mmという小型ではなく、4の5と呼んでいるフィルムの大きさが4インチ×5インチのカメラを使います」に負けないような写真が撮れるのですが、高画素を引き出すには当然、テクニックが必要で、まずレンズは性能が良い、最新の技術で作られたものが向いています。一眼レフカメラはミラーショックがあれば低感度、スローシャッタではブレた写真になるので、夜明けのシーンのように暗い条件ではカメラを頑丈な三脚に固定してカメラに手を触れないでリモコンコードといってワイアでシャッターを切るのが成功の秘訣です。添付写真はそこまで配慮していませんが、一つには最新のレンズにはブレ防止という機能を備えたものが多く、カメラを手すりや手近な物体に押し付けています。写真はレンズの絞りを開放ではなくある程度絞り込み、フィルムに相当するISO感度を低くした方が精細な出来になる理屈で、反面シャッター速度は遅くなります。写真は去年11月14日の初冠雪から始まって今年の4月4日まで順番に並べました。冬の夜明けは日の出前には暗いブルーの空が次第に上部から紫色に変化し、富士山の頂上に陽が差すとスポットライトを浴びたようです。寒いのでシャッターを押す手の感覚がなくなりますが、自然の美しいショーは何度見ても感動します。
世界の旅
「観光大国スイスの登山電車」 2015年7月26日 写真と文: 境 孝彦
(クリックすると拡大します)
猛暑が当たり前になった夏、皆様は如何お過ごしでしょうか?編集長の春のヨーロッパ旅行に刺激されてストックしていた写真を基に原稿を作るつもりでしたが、この暑さでつい作業に時間がかかってしまいました。今回は暑さを忘れるような爽やかなスイス登山鉄道がテーマです。
かって日本がバブル景気で社会全体の元気が良かった頃、海外旅行者も急増し、ロンドン、パリ便などは成田からジャンボ機が一日に2便も飛んでいました。ヨーロッパの他の目的地はさすがに毎日運航とはゆかず、チューリッヒやミラノ便は週3便程度の運航でした。その当時は運航乗務員が便の増発に見合うだけいなかったので、通常は次の便が到着するまで滞在して、帰りの便に乗務するのが、長距離便で仕事をしても一泊後、翌日は他社便で移動して一泊後、翌日には日本に帰るというパターンが多く、出国から帰国まで4日パターンをこなしていたのですから、我ながらよく頑張ったという感想です。
チューリッヒとミラノはヨーロッパアルプスを挟んで飛行機だと1時間圏内なので、スイスエアの子会社クロスエアで低い高度からアルプスの山々を見ました。そんな時でも偶にチューリッヒに2泊して3日目に帰国するパターンがあって、そんな美味しいパターンの時は翌朝、早起きして滅多にチャンスがないスイスアルプスを観光して回りました。
前置きが長くなりましたが、治安が良く、清潔、交通システムが発達した観光スイスの旅に出発します。
スイスといえば我が国の九州くらいの面積で日本同様、資源らしい資源もなく時計などの精密産業と観光の国といったイメージでしょうか。興味あるのは、スイスは永世中立国として世界から認知されているのに外国からの侵略を防ぐため徴兵制で一般市民は予備軍として登録されていて軍備はしっかりしています。一般には知られていないでしょうが、かってエリコンという機関砲は性能が良いのでイギリス、日本も技術導入したくらいです。多民族の成り立ちから公用語がドイツ、フランス、イタリア、ロマンシュ語と4っもあるのは日本では考えられないですね。
さて、チューリッヒのホテルを早朝に出発して首都ベルン経由、インターラーケンに向かいます。スイス国鉄は料金が高めですが、そこは観光国の良さでパスポートを駅で見せれば一か月有効の半額カードを発行してくれ、国鉄だけでなく登山鉄道、ロープウエイ、ケーブルカーの料金も半額になるのです。平地を走る国鉄はレール幅の大きな広軌、これはヨーロッパ内の国際列車がお互いに乗り入れているから当然でしょう。インターラーケンに到着すれば後は登山鉄道に乗り換えて最高3454mにあるユングフラウヨッホまで全く歩くことなく行けます。
しかし、旅行のお勧めは高い山を見るには離れた場所からに限ります。そこで、ラウターブルンネンで下車し、ロープウエイで崖の上まで行き、そこから崖の上を走る鉄道で終点のミューレンで下車し、最後に大型ロープウエイで標高2970mのシルトホルン「Schilthorn」展望台から見るスイス4000m級の山、写真の右から4158mユングフラウ、4099mメンヒ、3970mのアイガーは最高ということになります。夏のミューレンは長期滞在者が多く、涼しくて爽やかな景色を毎日見ながらトレッキングするそうです。登山電車は勾配が少なければ普通のレールで問題ありませんが、勾配がきつくなればスリップするのでラック式といって線路の真ん中に歯車を噛みあわせるもう一本のレールがあって雪が降っても滑ることはありません。登山鉄道を何種類も乗り継いで富士山より高い所まで歩かずに行けるのが素晴らしいですね。観光大国と外国からの旅行者を引きつけるポイントは単に交通の便利さやアルプスの景色だけでなく、英語がどこでも通じる安心感、トイレの清潔さが印象に残りました。
ルツェルンの思い出 チューリッヒにステイ中、ルツェルンには何度かミニ旅行をしたことがあり、懐かしい思いで写真を探し出しました。木造の橋は1993年に火災で損失し、早くも1996年には復元されているのがヨーロッパらしいですね。空から見たカペル橋が分かりますか?湖の上に斜めにあるのがカペル橋です。HPの記事に書いたようにチューリッヒからミラノに行く他社便から撮りました。
「ラスベガスからグランドキャニオンへ」 14'6/25
以前にグランドキャニオンの想い出というタイトルでHPに投稿したことがありますが、この度の編集長の壮大なアメリカ大陸バスツアーを記念して、改訂版ともいうべき新たな気分で記事を作りました。
編集長も羨むエアラインディスカウントという制度でラスベガスからグランドキャニオンまで小型機で定期便を運航しているScenic
Airlinesに乗るには身分証明証を提示し、正規の料金の一割で空席待ちという条件でOKなのですが、観光客が押し寄せるシーズンともなると始発便から満席という事が多く、実際に早朝から空港で空席を待っていてもその日には乗れなかったこともあり、結構、苦労します。但し、シーズンオフ時には全く、問題なく乗れますがね・・・因みに現在の正規料金を調べてみると、大人一人が昼食、国立公園へのバス代も含めて329ドルとなっていて、それが約33ドルで一日過ごせるのだからやはり有難い制度です。
ラスベガスからグランドキャニオンまで飛行時間1時間、離陸後はラスベガスの街、住宅地、おまけにアメリカのネリス空軍基地上空を経て、フーバーダムが見えるように進路をとってくれます。この有名なダムは1931年から1936年にかけて人的な犠牲を払って建設されました。コロラド川から流れる大量の水量を堰き止めるダムを僅か5年で完成させたのですから、アメリカの意気込みが分かります。
ダムの堤防上には片側1車線の国道があり、通行をスムースにするためにダムの下流にバイパス道路を最近になって作り、この工事には日本の大林組が請け負ったようです。ダムは砂漠の街に水を供給するだけでなく、勿論、水力発電で不夜城の電力も供給しています。意外だったのは水力発電からのラスベガスへの電力供給量は10パーセントくらいで、殆どは内陸では原子力発電が出来ない火力発電に頼っているようです。当然ながら電気料金も他より高いそうです。ダムはネバダ州とアリゾナ州の州境になっており、アリゾナ州に入るとミード湖「Mead
Lake」が目に入ります。その先には巨大な岩、崖ばかりで谷間にはコロラド川が流れています。グランドキャニオン空港からはバスに乗り換えて、1919年に国立公園に指定されたグランドキャニオンに入ってゆきます。溪谷はコロラド川の浸食によって出来たものと思っていましたが、実際はアメリカ大陸が隆起活動を繰り返し、巨大な活断層にずれが生じ、その間を川が流れ、更に溝が深まった説が有力です。1979年には世界遺産に登録されています。時間とお金に余裕がある人はロバに乗って崖を下り、コロラド川脇で一泊二日のツアーも出来ます。宿泊ロッジで食事をし、夜には野生動物の鳴き声を聞きながらくつろぐのは最高の贅沢でしょう。
写真を眺めながら雄大な気分に浸ってください。
「ドイツ列車の旅、アルト・ハイデルブルク!!!」 14'1/10 原稿・写真 境孝彦
2014年の新年がスタートし、我が編集長の気力が充実しているタイミングで久し振りに原稿を書いてみました。
「アルト・ハイデルブルク」と題した切っ掛けは実は海外旅行など夢の夢であった時代にさかのぼります。音楽好きの方は憶えておられるでしょうか?白黒のテレビ時代に毎週、日曜日の昼過ぎに「ミッチと歌おう、Sing
Along With
Mitch」という番組がありました。およそこの種のテレビ番組には無縁のようなオジサン風の男性合唱団が力強い見事なハーモニーを聴かせてくれるのでした。
当時、航空大学の学生だったので、宮崎市内での下宿生活をしており、日曜日には何処にも行かずに下宿のテレビにかじり付いたものです。ある日、合唱団のハミングを背景にテノール歌手がソロで歌った曲が強烈な印象として残っています。今はYou
Tubeの動画でミッチミラー合唱団の歌を聴くことが出来ます。そのテノールの顔を思い出すことが出来ますから、余程印象に残っているのでしょう。
曲の題名など知る由もありません。それから何年か過ぎ、航空会社に運航乗務員として採用され、厳しい訓練、副操縦士の経験を経て、機長として一年の国内線の後、まずDC-8貨物機「ジェット時代、第一世代の旅客機」でアンカレッジ経由、アメリカ西海岸線、北極回りヨーロッパ線を機長として乗務することになりました。冬のアンカレッジは緯度が高いので日没が早く、宿の外は気温がマイナス10度以下?呼吸をすると鼻毛が瞬間凍ってしまう位でした。通りを挟んで道路の反対側に楽器屋さんがあり、そこで運命の楽譜を手に入れたのです。
赤い、表紙の古い本がそれです。
これからが本題です。学生王子「The
Student
Prince」と題した楽譜はアルト・ハイデルベルク「古き、良きハイデルベルク」というドイツのウィルヘルム・マイヤーの戯曲を元に、ハンガリー生まれでアメリカに移住したシグマンド・ロンバーグ [Sinmund
Romberg 1887〜1951年] が作曲し、航空大学の学生時代に感動した曲はオペレッタの中の有名な曲、「Serenade」, 「Deep in My
Heart Dear」, 「Drinking Song」, 「Students March Song」 だったのです。
ジャンボ機でヨーロッパ路線を専門に飛ぶようになり、休日にフランクフルト中央駅から急行で1時間ばかりのハイデルベルクには良く通いました。中世の城下町であるハイデルベルクには歴史ある大学があって、学生王子のカール・フランツは退屈した宮廷生活に飽き、飽きしていたので家庭教師でもあるエンゲル博士が学生時代に過ごしたハイデルベルク大学で学ぶことになり、居酒屋兼下宿先の看板娘ケティと恋に落ちるも国王の急病で急遽、国に帰り、王の後を継ぐことで恋が終り、王の座に就いた後に懐かしいハイデルベルクを訪れ、学生時代をケティと語るというのがオペレッタの簡単なストーリーです。我々にも学生時代の想い出話が一杯あるのでないでしょうか?
ハイデルベルクの商店街は山の中腹にあるお城から見下ろすような所にあり、ネッカー川を挟んで商店街の反対側には「これが本当のマンションだ!!」と言わんばかりの立派な住宅が建ち並んでいます。そんなマンションより高い所に「哲学者の道」と呼ばれる小道があって、丁度、対岸から見るお城は威風堂々としています。ハイデルベルクは晴れた新緑の季節もよし、モヤがかかったしっとりした季節も良し、学生王子のカール同様、何時かは又訪れたいですね。
「ワンダフル、ワンダフル、コペンハーゲン!!」 原稿と写真:境 孝彦 13'5/24
「新緑が何時の間にか濃くなってしまいましたが、皆様、お変わりありませんか?今回紹介するのは北欧3国の一つデンマークの首都、コペンハーゲンです。我が、編集長も若き頃に南ヨーロッパで勉学に励まれたという話ですが、北欧には行かれていないのか気になる所です。
「ワンダフル、ワンダフル、コペンハーゲン!!」はダニー・ケイ主演のアンデルセン物語のテーマ曲になっている歌の題です。ダニー・ケイ扮する童話作家アンデルセンのDVD版映画を見て感動したのが今回の原稿を書く切っ掛けです。
北欧3国といえばデンマーク、スエーデン、ノルウエイで地図を見るとデンマークは北ドイツと国境を接していて、デンマークの首都コペンハーゲンはシェラン島の東部にあるのです。これはヨーロッパの長い歴史で民族の異なる国からの侵略を逃れるための結果だという事が想像できます。島国の日本は周辺を海で囲まれているので国境の観念が薄いかもしれません。
かってコペンハーゲンやハンブルグは日本からヨーロッパに空路で旅する玄関口でした。この理由が分かる方は相当な知識通です。
冷戦時代のソ連は日本からヨーロッパへのシベリアルートは外国の航空機が飛ぶのはとても認められるものではなく、その頃は東京からアンカレッジで給油して北極経由のルートがメインでした。アンカレッジで給油してもロンドンやパリまでは無着陸できなかったのが当時のジェット旅客機の性能だったのです。
さて、それから数十年経って航空機の航続性能が日本からロンドン、パリはおろか距離的にはそれらより遠いローマまでも無着陸で飛べるようになるとコペンハーゲンは北ヨーロッパの単なる一都市になってしまい、アンカレッジ同様、空港は寂れてしまいました。そこで今回の原稿が登場する次第です。アンデルセンという童話作家は世界的に有名です。この原稿を書くに辺り、資料を調べてみると今まで童話の世界でしか知らなかった興味ある事柄が判明して何事も好奇心を持つことが大事かなと思います。
ハンス・クリスチャン・アンデルセンは貧しい靴屋さんの息子として生まれ、幼い頃から上流社会への憧れがあり、自身の風貌にも自信がなく美しい女性とも縁がなく生涯を独身で過ごしたのです。添付写真の人形姫をご覧ください。どこか寂しいそうではないですか?人形姫はアンデルセン作の有名な童話で、海底の人形王国で生まれた人形姫は人間社会への憧れが強く、王国の魔女に相談した挙句、舌を切って言葉が喋れない上に足には激痛を伴うという条件で人間社会の王子との恋が実らなければ海の泡の化すという条件で、恋は実らずに悲恋で終わったというのが簡単なストーリーなので銅像の人形姫の悲しい表情が理解できるというものです。これは貧しい生活を強いられたアンデルセン自身の心の内を表しているというのが良く分かります。コペンハーゲンの市庁舎側にはアンデルセンの銅像があり、今では国民的な英雄になった彼の表情も人が本来持っているであろう負の心でもある差別、妬みを全て克服したかの穏やかな表情です。
市内にある1943年にオープンした「チボリ公園」はウオルト・ディズニーも参考にしたというノンビリゆったり気分に浸れます。但し、公園は気候の良い4月から9月にかけて営業されるというから北欧の冬の厳しさが想像できます。コペンハーゲンは北緯55度にあるので夏は白夜で夜が殆どないのが特徴です。
「世界を一つにするもの」 文と写真:境 孝彦 3月27日 (*写真にマウスを当てるとコメントが出ます)
最近、1年が経つのが早くなった気がしてなりません。それだけ毎日が充実していれば文句ないのですが、雑用に追われ趣味の世界に熱中していると体が動いてくれる内に好きなことをしたいものだと思います。
情報化時代で新聞、インターネットなどで世界中のニュースが手軽に分かるようになりました。趣味を通じて海外の知り合いとメールをやり取りする際にはお互いの現地時間が念頭にあります。
これからお話するテーマは「世界を一つにする時間」です。
かってのイギリスは海洋王国として航空がまだ実用になる前から世界の海を支配していました。大英帝国なんて如何にもという呼び方が象徴しています。その頃の航海は推測航法、天測航法で基本となる時間は今回写真で紹介する王立天文台の経度ゼロを基準とした時間だったのです。この王立天文台はロンドンの中心部から東に10キロ足らずのテムズ川の南にあるグリニッチ公園の小高い丘の上にあります。1675年設立の天文台は公園付近の空気汚染が進んで観測に適しないという理由で1990年に郊外のケンブリッジに移転し、現在は世界標準時刻を表示する観光名所として生き残っています。Old
Royal Observatoryと呼んでいるのは新しい天文台と区別するためでもあるのでしょう。
地球の赤道をゼロとして南北に輪切りし、これを緯度「Latitude」と称し、天文台にある場所を起点にして東西に切り、これを経度「Longitude」と呼んでいます。グリニッチ天文台のある地点が経度0度なのでそこから少しでも東に行けば経度は東経になり、西に行けば西経となる理屈で、因みにロンドンの空の玄関口であるヒースロー国際空港は僅かに西経「マニュアルによればヒースローのスポット33番は北緯51度28分、西経000度266分」余談ながら空港を出発する際にコンピューターに現在位置を打ち込みますが、東経と西経を間違えると飛行中に誤差が蓄積され航法精度が信用されなくなって、何年か前にアンカレッジからソウルに向けて飛行中の旅客機がサハリン沖で当時のソ連の戦闘機に撃ち落された事件がありました。日本は英語で極東「「Far East」とも呼ばれますが、東経の遥か端という意味になるのでしょうか?確かに国際日付け変更線から東のハワイは西経になります。
皆さん、ご存じのように日本の標準時刻は東経135度にある明石を基準として、ロンドンとは9時間の時差があります。グリニッチ天文台の標準時刻はGMT「Greenwich
Mean
Time」と呼ばれ、世界中を飛んでいる航空機の時間はGMTを使用します。但し、実用上、GMTはZ「ズル」と簡単に呼んでいます。GMTとは別にUTC「協定世界時、Coorinated
Universal
Time」という世界時があり、これは電子時計によってより正確な時間が利用できるようになりました。現在、世界を相手に仕事をしているビジネスマン、外交官、政治家などは恐らく世界標準時のGMTまたはUTCで活躍されていることでしょう。
「世界で一番好きな国の古い町」
我が編集長のカムバックを祝して、久しぶりに旅行記が復活しました。城山の中学で過ごした仲間とHPで繋がっているのは有難いことです。
それでは、本番スタートします。
タイトルにある個人的に「世界で一番好きな国」、それはドイツです。現代社会生活に大いに貢献しているドイツの科学技術、切りがありませんが、自動車のガソリン・エンジン、ディーゼル・エンジン、飛行機のジェットエンジン、航空機用レーダー、印刷技術、健康検査でお世話になるレントゲン、クラシック音楽の分野でも素晴らしい作品があります。
ドイツの街は何処に行っても個性的で、却って都市部は爆撃で徹底的に破壊されて新しい建物が多く、その点、ローカルの町には古き良き時代の名残があって良いものです。フランクフルトをベースにして「ICEドイツ新幹線」やいろいろな種類の列車を使って日帰り旅行をよくしました。
ネオナチのように排他的になるのは考え物ですが、今回取り上げたドイツ中世の町、ローテンブルグにもドイツ魂を見ることが出来ます。この町に行くにはヨーロッパ・バスといって主要都市から出るバスを利用するのが簡単ですが、鉄道を利用するのも旅情が味わえて悪くありません。フランクフルトからビュルツブルグへは1時間に一本、急行列車が出ていて、まずこれに乗ってビュルツブルグで乗り換え、ミュンヘン方向のローカル線でシュタインナッハ「Steinnach」駅下車します。ローテンブルグは中世にはお城があった城下町で、駅から少し歩くと城壁が見えてきます。石畳の町は如何にも歴史を感じさせます。
驚いたことに2次ヨーロッパ大戦では連合軍の爆撃を受けて壊滅的な被害を受けたというのですが、戦後の努力により見事に町が復活しました。古い建物が破壊されて、新しい建物を建てるのではなく、古い建物をそっくり作り直すというのがドイツに限らず、ヨーロッパスタイルです。日本の場合は古い建物は木造建築なので材料、コストの面で難しいかもしれませんが、歴史を大事にするという考えが博物館の充実にも繋がっているように思えます。
訪れた時は長い冬が終わり、春になったばかりで観光客の姿もまばらで、却ってノンビリした雰囲気がありました。ドイツの街はどこでも市庁舎「Rathaus」が中心部にあり展望台からローテンブルグの全景を見ることが出来ます。中世犯罪博物館の前には拷問用の道具があります。犯罪者がこんな枠の中に押し込められて水攻めにあったら白状してしまうのでしょうか。